読書

「伝える」ことについて深く考えさせられた本

本が好き!様から、港 かなえ著『ドキュメント』本をいただいたので、書評を書いた。ネタバレなしです。

高校の放送部を舞台にした部活小説。「伝える」とは何かを真剣に考える高校生の姿に、自分自身も伝えることについて考え、いろんな感情が湧き出してきました。

前半は本が好きに投稿した書評(縦スクロールで書評本文が読めます)
後半は、私の経験も含め、伝えることについて考えたことを書きました。


伝えることの私の経験

私は中学、高校と放送部でマイクの前で話す側だった。今なら音声や映像を撮る側、企画をする側に興味があるが、当時は目立ちたかったのだと思う。中学の放送部は新設の部活だったが、顧問が前任校でも放送部を担当していたこと、非常に熱心な方だったことから、きっちり部活をしていた。自分で放送用の原稿を書き、アクセント辞典でアクセントを調べて、正しいアクセントで伝えられるように何度も練習した。

正しくすることを求められたのは、アクセントだけではなかった。校則やモラルを守ることも求められた。校内放送で「お知らせ」として伝える以上、伝える側はそれを守る責任があるということを常々顧問に指導された。「たまたま放送部員だというだけで、どうして他の生徒以上に校則を守り、先生が求めるような生徒にならないといけないのか」と心の中では反発しながら言い返すことはなかった。40年以上経っても覚えているのだから、心の中に引っかかる言葉だったのだ。

この本は放送部の活動を通して描かれているので、昔の自分の放送部時代のことも思い出す。「伝える」ということを考え直したとき、「伝える側の責任」の重さを教えてくれたことは、今となっては標準語の正しいアクセントで話すよりも、ずっと意味のあることだったと思う。

まさに先生は「伝えて」くれていたのだなと思う。

私もNHKのコンクールに出場した。中学のときには、朗読部門とアナウンス部門があった。顧問は前年度の入賞者が発表した録音を聞かせてくれた。
前任校で大会前にアナウンサーに来てもらい研修してもらったと聞いた記憶がある。朗読は抑揚をつけすぎないほうがいいとアナウンサーから指導されていたが、実際コンクールでは、よく言えばメリハリのある抑揚のついた読み方をされた人で、入賞した人がいることなども聞いた。中学生のときは、審査と言っても、アナウンスのプロだけが審査するのではなく、素人もいるからそうなるんだなと生意気なことを思っていた。(自分が意外なほど覚えていることに驚く)

しかし、この本を読んで受け止め方が変わった。中学生が教科書を朗読する(当時、課題が教科書の文章から自分で好きな部分を選択だった)ということは、聞き手は中学生だ。朗読するときに、聞き手が誰かということを意識して読んだことはなかった。他の部員の朗読を聞いてアドバイスするときも、当時その視点はなかったことに気づいた。

例え朗読でも、「誰に」伝えるのかで、読み方は違うはずだ。中学生と日頃接している審査員(どういう人が審査員かもよくわからないが、教育関係者も審査員にいたのではないかと思っている)が、「伝わる」「中学生が聞いてイメージしやすい読み方」を求めることが、今ならわかる。

今の時代、伝えるということ

「伝える」ことは特別なことではない。こうして文章で書いていることも「伝える」だ。身近なSNS,LINEやTwitterも「伝える」ツールだ。パワーポイントなどを利用してプレゼンすることも「伝える」だ。
友達と話をすることも、配偶者や子と話をすることも伝えたいことがあるからだ。上司や部下と話をすること、お客様と話をすること、クレームを言うことも伝えるだ。

伝える場面はたくさんある。でも、うまく伝えられないと悩む。伝えたつもりで全然伝わっていないことも世の中多い。伝えるときに「聞き手はどう感じて、その後どう行動するか」まで考えることも必要だ。

ドキュメントという言葉

「ドキュメント」「ドキュメンタリー」は、事実を扱うもので、虚構ではないけれど、制作者の意図を反映して作られたものだ。制作者の意図によって切り取り方も伝え方も違う。事実だけれど、ある一面の可能性はある。何を伝えたくて番組(コンテンツ)を作るのか、によってできあがるモノは全く違う。このあたりが、この本のタイトルと関係しているのではないかと思う。